皆さん、こんにちは。
China Style 講師をしております、池村憲治です。
最初に一つだけお願いがあります。
どうか、私のことを「先生」ではなく、他の呼び方をしてくださいませんか?
「先生」と呼ばれると、なんだかこそばゆいんです。
「先生」と「生徒」というよりも、もっと近くにいたいと思いますので、
どうぞ、よろしくお願いします!
『東京生まれ、山口育ち、熱狂的な阪神ファンです』
と、名刺の裏に書いております。
一言で私を表現するなら、と、キャッチコピーにしております。
しかし、これだけでは、やっぱり、わからないことがたくさんありますよね。
中国語を習うのだって、どんな人に習うのかわからなかったら、不安ですよね。
というわけですので、ここでは、私『池村憲治』について、少し知っていただきたいと思います。
東京生まれで、5歳まで、東京は、昭島市、というところで育ちました。
幼稚園の年長から、山口県は、吉敷郡阿知須町(当時)、という
小さな町に引っ越しました。
(今は、市町村合併で「吉敷郡」がなくなり、山口市になっています)
人口8000人足らずの小さな町ですが、自然豊かな町です。
海あり、山あり、緑ありの、とてもいい町だと思います。
町を歩くと、誰彼かまわず、挨拶があり、
都会で失ったものが、まだそこには存在します。
私は、ここで、高校卒業までを過ごすことになります。
高校は、学生の90%以上が大学進学を目指す、という学校に入ってしまいました。
学校の雰囲気が『大学に行かない人は人間じゃない』という感じでしたので、
私も、何がしたいわけでもなく、「大学にいくんだ」と、漠然と考えていました。
しかし、世間は、そんなに甘いもんじゃないですねぇ(笑)
大学受験に失敗した私は、何をしたらいいか、考えておりました。
しかし、勉強って、なんなのだろうと、感じていたのも事実です。
『テストのために勉強をして、テストが終われば、全部きれいに忘れてしまう…
そんな勉強に意味があるのだろうか…』
学生時代、ずっと、そんな思いを抱えていました。
何をしようか考えているとき、父親から、天の声が響きました。
次の日には、私の机の上には、留学する大学のパンフレットが置いてありましたから、
父親の行動力に脱帽です。
なぜ、父親が、中国にはまったのかも、ご案内しておきましょう。
父親が、勤めていた会社の慰安旅行で、中国に行ったんです。
そこで、父親は、
と、実感したそうなんですね。
それで、息子の私が、中国へ…ということになったのです。
まぁ、その数年後に、父親も、私が留学した大学へ、留学することになるのですが…
(私の『後輩』になってしまいましたね。今でも笑い話にしております)
そんなこんなで、留学が決定いたしました。
向こうの学校は、9月スタートなんです。
今は、日本に合わせて、4月からも留学生受け入れがあるようなんですが、
当時は、9月からだけでした。
半年間、車の免許をとったり、アルバイトをしたり、今までの人生でも、
かなりいろいろな変化があり、楽しい時期でした。
中国語に対する思い、などは、別ページで詳しくご案内しております。
よかったら、ご覧くださいね。
留学時代は楽しかったですね。
19歳で、留学をしたわけですが、
そこには、企業留学の方、大学卒業の方、大学を休学された方、様々でした。
年齢も、出身地も、さらには、国籍も本当に様々でした。
今まで、学校、というところは、ほとんど、同い年だけのお付き合いですよね。
留学時代の経験は、中国、という土地が新鮮だったのもありますが、
人間付き合いも、本当に新鮮で、楽しかったです。
とはいうものの、それまで、飛行機に乗ったこともなく、
ましてや、海外に出たこともない私にとって、そりゃ、最初は不安でたまりませんでしたよ。
ま、でも、不安だったのは、最初の2日くらいだけだったでしょうか。
不安な気持ちよりも、目新しいものにぶつかる新鮮さの方が勝りましたね。
最初は、中国と、日本との違いにカルチャーショックを感じたものでした。
車のクラクション、バスの混み具合、人々のパワー+大声…
初めて、目の当たりにするものばかりでしたから。
人間って、やはり、慣れていくもので、そんな生活も、心地よく感じてきました。
半年後に、正月休みがあり、日本に一時帰国するわけなんですが、
その時に、『日本』という国を客観的に見られるようになったのを覚えています。
それまでは、日本から出たこともなかったわけですから、
そこでの生活が『全て』でした。
一度、違うところに住んでこそ、改めて自分が育った国を、客観的に見られたんですね。
これは、10代の私にとっては、また、とても新鮮な感覚でした。
留学先では、韓国や、その他多くの国籍の友人ができていましたから、
更に、日本を、そう見ることができたのでしょう。
当時は、まだまだ石炭が主流でした。
雨がほとんど降らない地域なんですね。
やっぱり、乾燥には、要注意、という感じですよ。
空気も、石炭のせいで、きれいじゃありませんしね…
まず、熊本の剣道武道具会社に就職をしました。
中国は、『広西壮族自治区』というところへ、駐在もしました。
香川県のゴルフグローブメーカーに転職をし、天津に駐在をいたしました。
その後、流れ流れて、神戸に住みつき、
8年間、ホテルマン生活をさせていただいた、という感じなのです。
日本も、中国も、いろいろな場所で生活をして、
いろいろな視点から物を見る、ということができるようになったと実感しております。
中国だけでも、3か所、住んでおりました。
言葉、風習の違いも体験でき、とても、楽しかったです。
中国北方の文化が、韓国に流れ、南方の文化が、日本に流れているんだな、と、
実感も致しました。
旅行だけじゃなく、『その土地に住む』ということは、
やはり、とても、大切なことですよね!
China Styleを通じて、これからも、たくさんの方と、
知り合っていきたいと、考えております!
こんな池村ですが、どうぞよろしくお願い致します!